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第1節 欧米の進出と幕末の危機
○44 欧米列強のアジア進出

イギリスによるインド支配

産業革命と市民革命をなしとげた欧米諸国は、安い原料を大量に確保するため、また、大量生産された自国の商品を売る市場を求めて、アジアに進出した。
その中で最も成功を収めたのは、イギリスだった。

イギリスは、まず、インドに進出した。
イギリス東インド会社が主体となって、イギリスの大工場で大量生産された綿織物をインドに売り込んだ。
インドの手工業は、安価なイギリスの製品との競争に負けてたちまちおとろえ、多数の職人が失業した。
1857年、イギリス東インド会社に雇われていたインド兵(セポイ)の反乱をきっかけに、不満をもっていた手工業者や農民が合流し、全国的な反乱となった。
これを武力で鎮圧したイギリスは、インド全体を支配下に治め、植民地とした。

軍事力の格差

16世紀から18世紀にいたる300年間に、ヨーロッパではおどろくほど軍事技術が発達した。
他方、アジアでは、国内の戦乱が収まり社会が安定すると、江戸時代の日本も、清朝の中国も、軍事技術の発展に関心をもたなくなった、
東アジアでは約250年間、平和な時代が続いた。

こうして、ヨーロッパの軍事力は、アジア諸国を圧倒するようになっていた。
かつて、モンゴルの騎馬軍団は、馬を走らせて、草原を征服したが、この時期のヨーロッパ人は、軍艦から大砲を撃って、植民地を征服したのだった。

アヘン戦争とイギリスの中国進出

18世紀になると、ヨーロッパ人の生活にもう一つの変化がおこった。
それは紅茶を飲む習慣が広まったことで、とくにイギリスでは、心から輸入する茶は生活必需品となり、多額の費用がかかった。
茶は高価な商品だったので、イギリスは、植民地のインド人に麻薬であるアヘンをつくらせ、これを茶の代金として清に売りつれた(三角貿易)。

清がアヘンの輸入を禁止すると、イギリスは、自由貿易をさまたげたとして軍艦を派遣して戦争をしかけ、1840年、アヘン戦争が始まった。
戦争は2年あまりも続き、圧倒的な力をもつイギリスの海軍が海上を封鎖して、1842年、清は不平等な南京条約に調印した。
こうして、中国はしだいに半植民地の状態に置かれるようになった。
この情報は日本にもたらされ、大きな衝撃をあたえた。

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東インド会社
1600年に設立され、イギリス国王からアジア貿易の独占権を与えられた会社

アヘン戦争の情報は「オランダ風説書」を通して日本に伝えられ、民衆にも広まった。

考えてみよう
綿織物の輸出額の推移のグラフを産業革命と結びつけて説明してみよう。

やってみよう
イギリス以外のヨーロッパの国々のアジア進出についても調べてまとめてみよう。