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第3節 立憲国家の門出
○ 55 自由民権運動

自由民権運動の始まり

1868(明治元)年に発布された五箇条の御誓文は、
その第一条で、議会政治の確立を国の基本方針として宣言した。
その後、何度か議会開設に向けての試みが行われたが、実現にはいたらなかった。

1874(明治7)年、前年の征韓論をめぐる政変で政府を去った板垣退助らは、
民撰議院(国会)設立の建白書(注1)を政府に提出し、国民が政治に参加する道を開くことを求めた。

建白書の提出とともに、板垣は高知県に士族中心の政治結社である立志社をつくった。
板垣らは、政府が、
薩摩・長州などの出身者からなる藩閥政府であると批判し、
これに対抗して、国民の自由な政治参加を主張する政治運動を始めた。

この動きは全国に広まり、自由民権運動とよばれた。


注1、これは、1869年に設けられた建白書制度を利用したものだった。
この制度は、身分や男女を問わずだれでも政府に意見を述べることができるもので、
こののち1890年の国会開設まで20年間続けられ、国会開設後は議会への請願制度に受けつがれた。


政府と民間の憲法準備

1878(明治11)年、国会に先立ち地方議会(府県会)が開設された。
これは国民に議会制度の経験を積ませることが目的だった。
自由民権派は、地方議会に進出し、各地に政治団体をつくり、全国的な結びつきを強めていった。
1880年には大阪に代表者が集まって国会期成同盟を結成し、新聞や演説会を通して活動を広げていった。

自由民権運動が盛り上がる中で、国会開設の時期について、政府の内部でも意見が分かれた。
1881(明治14)年、参議の大隈重信は、2年後に国会を開設し、政党内閣制を実現することを主張した。
伊藤博文は、時期尚早としてこれに反対し、大隈を政府から追い出した。
同時に、政府は9年後に国会を開設することを国民に約束した。

国会開設に備えて、政党の結成があいつぎ、板垣退助は自由党を、大隈重信は立憲改進党を組織した(注2)。

地方の志のある人々の中には、自分たちで外国の文献を研究し、憲法草案をつくるグループもあらわれた。
これら民間の憲法草案は、一般国民の向学心と知的水準の高さを示すとともに、国民の強い愛国心をあらわすものでもあった。

条約改正と近代国家建設のために、憲法と国会が必要であると考える点では、明治政府も自由民権はもちがいはなかったが、自由民権派は、急速にことを進めようとし、政府は着実に進めようとしていた。
政府は伊藤博文が中心となり、ヨーロッパ諸国の憲法を参照し、プロシア(ドイツ)などの憲法を模範として憲法草案の準備を進めていった。

伊藤博文は、1885年には内閣制度を創設し、みずから初代の内閣総理大臣に就任した。


注2、自由党は1881年、立憲改進党は1882年に結成された。



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民撰議院設立建白書(1874年)
現在、政権がどこにあるかを考えてみると、
上は皇室にあるのでもなく、下は人民にあるのでもなく、ただ官僚のもとにある。
彼らは皇室を尊び人民の安全を保つと口ではいうが、実際には多くの法令を出し、絶えず、改めている。
・・・・・これでは国家は崩壊してしまう。これを救うには、天下の世論をのばし、民撰議院をせつりつするしかない。
(『日新真事誌』より一部要約)


やってみよう
民間の憲法草案をどれか一つ選んで、調べて、その特徴をあげてみよう。