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第3節 立憲国家の門出
○ 56 大日本帝国憲法

大日本帝国憲法の発布

1889(明治22)年2月11日、大日本帝国憲法が発布された。
この日は前夜からの雪で、東京市中は一面の銀世界となったが、
祝砲が轟き、山車が練り歩き、仮装行列がくり出し、祝賀行事一色と化した。

大日本帝国憲法は、まず天皇が日本を統治すると定めた。
そのうえで実際の政治は、
各大臣の輔弼(助言)にもとづいて行うものとし、
天皇に政治責任を負わせないこともうたわれた。

国民は法律の範囲内で各種の権利を保障され(注1)、選挙で衆議院議員を選ぶことになった。

法律や予算の成立には、議会の承認が必要とされた。
議会には、衆議院のほか、華族や功労ある学者および官僚出身の議員などからなる貴族院が置かれた。


注1、憲法の第3条が、その条文にあたる。


衆議院選挙と帝国議会

翌1890年には、初めての衆議院議員選挙が行われ(注2)、第一回帝国議会が開かれた。

これによって日本は、
立憲政治は欧米以外には無理だと思われていた時代に、
アジアでの最初の、議会をもつ本格的な立憲国家として出発した。


注2、選挙権は満25歳以上の男子で、
直接国税15円以上を納める者に限られていた。
この当時、イギリス、フランス、アメリカなどでも、
身分や性別などの制限のない普通選挙は行われていなかった。


教育勅語の発布

1890年、
議会の召集に先立ち、天皇の名によって、
「教育ニ関スル直後」(教育勅語)が発布された。

これは父母への孝行や、学問の大切さ、そして非常時には国のためにつくす姿勢など、
国民としての心得を説いた教えで、1945(昭和20)年の終戦にいたるまで各学校で用いられ、
近代日本人の人格の背骨をなすものとなった。


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憲法を賞賛した内外の声

憲法が発布されると、政府批判の論陣を張ってきた新聞も、「聞きしにまさる良憲法」、「実に賞賛すべき憲法」などとたたえた。

また、憲法は翻訳されて、世界各国に通達された。
イギリスの新聞は、
「東洋の地で、周到な準備の末に
議会制憲法が成立したのは何か夢のような話だ。
これは偉大な試みだ」と書いた。

イギリスのある学者は、
日本の憲法が古来の歴史と習慣をもととした
穏健な立場でつくられていることが最も賛成できる点である、と述べた。

ドイツのある法律家は、
議会を両院に分け、衆議院のほかに貴族院を設けた知恵を高く評価した。
その理由は、
どこの国でも下院(衆議院)は急進的になるものだが、
その暴走による社会不安をやわらげるには、国に対する責任感と
良識のある人々からなる上院(貴族院)か欠かせない、というものだった。


大日本帝国憲法のおもな条文
第1条、大日本帝国は万世一系の天皇これを統治す
第3条、天皇は神聖にして侵すべからず
第4条、天皇は国の元首にして統治権を総覧しこの憲法の条規によりこれを行う
第5条、天皇は帝国議会の協賛をもって立法権を行う
第11条、天皇は陸海軍を統帥す
第20条、日本臣民は法律の定むる所に従い兵役の義務を有す
第29条、日本臣民は法律の範囲内において言論著作印行集会および結社の自由を有す
第55条、@国務大臣は天皇を輔弼しその責に任ず
Aすべて法律勅令その他国務に関する詔勅は国務大臣の副署を要す
第57条、@司法権は天皇の名において法律により裁判所これを行う


教育勅語(一部要約)

国民は、父母に孝行し、兄弟は親しみ合い、夫婦は仲むつまじく、友人は信じ合い、
つつしみ深く、高ぶらず、民衆に広く愛をおよぼし、学問を修め、技術を学び、
かくして知能を向上させ、人格を完成し、進んで国家・社会の利益を拡大し、
(中略)国家や社会の危急のことがおこったときは、進んで公共のためにつくさなければならない。


考えてみよう
大日本帝国憲法の条文は国家のしくみとどのように関係するか考えてみよう。