第3節 立憲国家の門出
○ 57 日清戦争

朝鮮をめぐる日清の抗争

日本は、朝鮮の開国後、その近代化を助けるべく軍隊制度の改革を援助した。
ところが、1882(明治15)年、改革に取り残され、
冷遇されたことに不満を持った一部の朝鮮軍人の暴動が発生した(壬午事変)。
清はこれに乗じ、数千の軍隊を派遣してただちに暴動を鎮圧し、日本の影響力を弱めた。

1884年には、
日本の明治維新にならって近代化を進めようとした金玉均らの
クーデターがおこったが、このときも清の軍隊は、これを弾圧した(甲申事変)。

朝鮮における清朝との勢力争いに2度敗北した日本は、
清との戦争を予想して急速に軍備を拡張し、やがてほぼ対等な軍事力をたくわえるようにいたった。

日清戦争と日本の勝因

1894(明治27)年、朝鮮の南部に甲午農民戦争とよばれる暴動がおこった。
農民軍は、外国人と腐敗した役人を追放しようとし、一時は朝鮮半島の一部を制圧するほどであった。

わずかな兵力しかもたない朝鮮王朝は、清に鎮圧のための出兵を求めたが、
日本も清との申し合わせを口実に軍隊を派遣し、日清両軍が衝突して日清戦争が始まった。(注1)

戦場は朝鮮のほか、
満州(中国東北部)南部などに広がり、
日本は陸戦でも海戦でも清を圧倒し、勝利した。

日本の勝因としては、新兵器の装備に加え、
軍隊の訓練・規律にまさっていたことがあげられるが、
その背景には、日本人全体の意識が、国民として一つにまとまっていたことがある。


下関条約と三国干渉

1895(明治28)年、日清両国は下関条約を結び、清は朝鮮の独立を認めるとともに、
日本政府の財政収入の約3倍に当たる賠償金3億円(2億両)あまりを支払い、遼東半島や台湾などを日本にゆずり渡した。

眠れる獅子とよばれてその底力をおそれられていた清は、
世界の予想に反して新興の日本にもろくも敗れ、古代から続いた東アジアの秩序は崩壊した。
中国はたちまちにして列強諸国の分割の対象となった。

しかし、日本が簡単に欧米列強と対等になることは許されなかった。
東アジアに野心をもつロシアは、ドイツ、フランスを誘って、
強力な軍事力を背景に、遼東半島を清に返還するよう日本にせまった。
これを三国干渉という。

清を破ったとはいえ、独力で3国に対抗する力をもたない日本は、
やむおえず、一定額の還付金と引きかえに遼東半島を手放さなければならなかった。

日本は中国の故事にある「臥薪嘗胆」を合言葉に、
官民あげてロシアに対抗するための国力の充実に努めるようになった。 (注2)(注3)



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注1、1885(明治18)年、
日清両国が朝鮮に出兵するさいには
事前に通知し合うという条約が両国間に結ばれていた。

注2、薪の上に寝て体を苦しめ、苦い胆をなめて仕返しを忘れまいとしたという中国の故事

注3、そのために、国内政治では、政府と政党が協力するようになった。
大隈重信と板垣退助が憲政党を創立し、
1898(明治31)年、初めて政党員が総理大臣となる大隈内閣が誕生した。
その後、伊藤博文はみずから総裁となって立憲政友会を結成した。

やってみよう
日清戦争の結果、東アジアと日本にどんな変化が生じたか、箇条書きにまとめてみよう。