第三節 産業の発達と三都の繁栄
○36 農業・産業・交通の発達

大開発の時代

平和な社会が到来し、人々は安心して生活の向上をめざして働いた。
幕府や大名も、農業の拡大に努め、干潟や河川敷などを中心に新田の開発が大規模に行われた。
江戸幕府が開かれてから100年のあいだに、全国の田畑の面積は、およそ2倍近くに増加した。

大開発にともない、田畑を深く耕せる備中ぐわ、
脱穀のための千歯こきが用いられるなど、農具の改良が行われ、農作業の能率が向上した。
肥料も、干鰯(ほしか)や油粕を用いるようになり、土地の生産力が高まった(注1)。

各地では、
染料のもととなる藍や紅花、麻、綿、菜種などの
商品作物の栽培が広まり、養蚕もさかんになった。


注1、米の生産高が上ったが、
検地で定められた年貢はすえ置かれたため、
実際の年貢率は収穫高の3割程度にまで下がった。



産業と交通の発達

大開発による農業の発展を受けて、他の産業も発展していった。
江戸をはじめ、各地で城下町の建設が進むと、
家屋建築のための木材の需要が高まり、林業がさかんになった。

また、肥料の干鰯を大量に生産するため、
房総(千葉県)では網を使ったイワシ漁がさかんになった。
土佐(高知県)沖のカツオ・クジラ漁、
蝦夷地(北海道)でのニシン・コンブ漁、瀬戸内海沿岸の製塩業も発達した。

鉱業では、佐渡(新潟県)の金山や生野(兵庫県)の銀山、足尾(栃木県)の銅山が開発された。
生産された金・銀・銅からは貨幣が作られ全国に流通したほか、ヨーロッパに輸出された(注2)。
その他、酒造、漆器、陶器、鋳物などの産業も発達し、各地で特産品がつくられるようになった。

幕府は、江戸を中心として東海道など五街道を整備し、宿場を設けた。
関所を置いて人々の通行を管理する一方、手紙を運ぶ飛脚の制度をつくり、交通・通信の便宜をはかった。


注2、日本の金・銀は、当時のヨーロッパの経済に影響をあたえるほどの位置をしめた。




三都の繁栄

将軍の所在地となった江戸は、
「将軍のおひざもと」とよばれ、商人や職人が多数集まり、
18世紀の初めには人口1100万人をこえる、当時、世界最大の都市となった(注3)。

大阪は米、木綿、しょう油、酒などのさまざまな物産の集散地となり、「天下の台所」とよばれて栄えた。
各藩は、大阪に蔵屋敷を置き、年貢米や特産品の売却を商人に依頼した(注4)。
集められた物産の多くは、菱垣廻船(ひがきかいせん)や樽廻船によって江戸に運ばれた。

京都は、朝廷が所在する文化の都として、
また西陣織や漆器・武具・まき絵など高級な工芸品を生産する主工業都市として栄えた。
江戸、大阪、京都は、合わせて三都とよばれた。

このほかにも、各地の城下町や門前町、宿場町が、
それぞれの地域の特性と伝統を生かして発展していった。


注3、17世紀末のパリの人口は約56万人、18世紀中ごろのロンドンは約60万人だった。

注4、江戸時代の前半期は、東日本より西日本のほうが、農業や諸産業が発達していた。


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やってみよう
自分たちの地域に江戸時代に発達した特産物があれば、その発達の歴史をレポートにまとめてみよう。