第二節 古代国家の形成
○5 中国の歴史書に書かかれた日本

小国が分立した紀元前後の日本

日本が弥生時代のころ、すでに中国では、
秦や漢のように、皇帝をいただく強大な国家が広い地域を支配していた。
その中国の歴史書には、日本の弥生時代のようすを記録したものがいくつか残されている。

そのうち、漢の歴史書には、紀元前後のころの日本について、
「倭人(日本)が100あまりの小国をつくっており、なかには中国へ使いを送る国もある」と書かかれていた。

また、同じく漢の歴史を記した別の書には、1世紀の中ごろ、
「倭の奴国王が漢に使いを送り、皇帝が金印を授けた」と記されていた。

この金印は、のちの江戸時代に、福岡県の志賀島で発見された。
「倭」も「奴」も見下した意味をふくんだ文字だった。
中国の歴史書では、皇帝の権威を示すために、周辺の国を野蛮な国としてあつかったのである。

邪馬台国と卑弥呼

3世紀に入ると、中国では漢がほろび、
魏・蜀・呉の3国がたがいに争う時代になった。
当時の中国の歴史書には、3世紀前半ごろまでの
日本について書かれた「魏志倭人伝」とよばれる記述がある。

そこには、
「倭の国には邪馬台国という強国があり、
30ほどの小国を従え、女王の卑弥呼がこれを治めていた」と記されていた。
卑弥呼は神に仕え、まじないによって政治を行う不思議な力をもっていたという。
また、卑弥呼が魏の都に使いを送り、
皇帝が「親魏倭王」の称号と金印、銅鏡100枚などの贈り物を授かったことも書かかれていた。

ただし、倭人伝の記述には不正確な内容も多く、
邪馬台国の位置についても、近畿と九州説が対立し、いまだに論争が続いている。


中国を中心とした国際関係

弥生時代の日本のクニの指導者が、中国の皇帝から
金印とともに、王の称号を授かったことは何を意味するのだろうか。
中国では、漢の時代から、周辺諸国とのあいだに、君主と臣下の関係を結んできた。

臣下の国は、中国皇帝の求めに応じて
出兵したり、朝貢したりすることが義務付けられ、
皇帝は朝貢した指導者に、その国の王の称号をあたえて支配権を認めた。
卑弥呼の時代に、すでに日本は、
こうした中国の皇帝を中心とする東アジアの
きびしい国際関係の中に組みこまれていたと考えられる


やってみよう
中国の歴史書に書かれている限りでの弥生時代の日本のようすを、年表にまとめてみよう。

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西方の民族には駱駝のかたちの印があたえられた。
南方の民族には蛇のかたちの印があたえられた。


魏志倭人伝
中国の歴史書「三国志」の中の記述

魏志倭人伝に書かれている邪馬台国のようす(一部要約)
倭人は、帯方郡の南東の大海にある島に住んでいる。
昔は百あまりの国々に分かれていた。
現在では、使いを送ってくるのは三十か国である。(略)

倭国は、もとは男性を王としていた。
男性が王となっていたのは七、八十年ほどであったが、国内は乱れて、攻め合いが何年も続いた。
そこで合議して、一人の女性を選んで王とし、この女王を卑弥呼とよんだ。
女王は宗教的な力で人々の心をつかんだ。
年をとっても夫をもたず、弟がいて政治を助けた。
女王になってから、彼女に会った人は少ない。

めし使いの女性を千人も従え、
ただ一人の男性が食事の世話をし、
女王の言葉を伝えるために、その住まいに出入りしていた。
宮殿や物見の台、とりでをいかめしくつくって、いつも警備の者が武器をもって守っていた。

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帯方郡
中国の王朝が朝鮮半島に置いた都で、中心地は現在のソウルあたり