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第二節 古代国家の形成
○7 大和朝廷と東アジア

百済を助け高句麗と戦う

古代の朝鮮半島の国々や日本は、中国の動向によって大きく左右された。
220年に漢がほろんでから
6世紀末まで、中国では、多数の小国に分かれたり、
南北に分かれたりして争う内乱の時代が続き、周辺諸国におよぼす影響力が弱まった。

そんな中、4世紀以降、
朝鮮半島北部の高句麗がしだいに強大になった。
高句麗は4世紀の初めに、朝鮮半島内にあった中国領土の
楽浪郡を攻めほろぼし、4世紀後半には半島南部の百済をも攻撃した。


百済は大和朝廷に助けを求めた。
日本列島の人々はもともと、
貴重な鉄の資源を求めて半島南部と
深い交流をもっていたので、大和朝廷は海を渡って出兵した。
このとき、大和朝廷は、半島南部の任那(加羅)という地に拠点を築いたと考えられる。

大和朝廷の軍勢は、百済を助けて、高句麗とはげしく戦った。
高句麗の広開土王(好大王)の碑文には、そのことが記されている。
高句麗は百済の首都漢城を攻め落としたが、
百済と大和朝廷の軍勢の抵抗にあって、半島南部の征服は果たせなかった。



倭の五王による朝貢

5世紀中ごろ、中国では漢民族の南朝と、
遊牧民族の北朝に分かれて争う南北朝時代をむかえた。
南朝の歴史書には、倭の5人の王(倭の五王)が、
10回近く使者を送ったことや、大和朝廷の支配が広がっていくようすが書かれていた。
大和朝廷があえて南朝の朝貢国になったのは、高句麗に対抗し、朝鮮南部のつながりを維持するためだった。

新羅の台頭と任那の滅亡

朝鮮では、三つの国が分立していたが、
6世紀になると、、朝鮮半島南部では新羅が力をのばした。
高句麗や新羅に圧迫された百済はこれに対抗したが、苦しい立場におちいった。

百済からは、助けを求める使者が、日本列島にあいついでやって来た。
新羅は、任那をもおびやかすようになった。
562年、ついに任那は新羅にほろぼされ、大和朝廷は朝鮮半島における足がかりを失った。

帰化人と仏教の伝来

5世紀から6世紀にかけて、
大和朝廷が朝鮮半島の政治に積極的に関与した結果、
朝鮮半島を通じて、中国の進んだ文化が日本にもたらされた。
中国や朝鮮半島から一族や集団で日本に移り住んだ帰化人(渡来人)は、
土器や金属器の加工、土木建築などの技術を伝え、漢字による朝廷の文書の作成にも力を発揮した。

漢字使用の定着とともに、儒教の書物も伝えられた。
また6世紀には、百済の王が日本の支援を求めたさい、
仏像と経典を大和朝廷に献上し、仏教が日本に伝来した。


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やってみよう
朝鮮半島や中国の国々と、
大和朝廷との連合関係や対立関係の変化を図にあらわしてみよう。

武が中国の皇帝に送った手紙(一部要約)

わが国は辺地にあるが、中国の垣根になっているような国です。
昔からわが祖先はみずからよろい・かぶとを見につけ、
山野を越え、川を渡って落ち着くひまもありませんでした。
東は毛人(東北地方の人々のことか)を五十五カ国、
西は衆夷(九州地方の人々のことか)を六十六カ国、
海を渡って朝鮮半島で九十五カ国を平定しました。
(『宋書』倭国伝より)

武は南朝の歴史書に登場する5人の倭の王の一人で、雄略天皇にあたると考えられている。