第一節 武家政治の始まり
○20 元寇

モンゴル帝国

13世紀の初め、モンゴル高原に、チンギス・ハンがモンゴル帝国を建てた。

モンゴル帝国は、無敵の騎馬軍団を各地に侵攻させ、
またたくまに、西アジアから中国まで、ユーラシア大陸の東西にまたがる広大な領土を築いた。
この動きにヨーロッパ人もおびえ、モンゴル人をおそれた。
モンゴル帝国5代目の皇帝、フビライ・ハンは、
大都(現在の北京)という都を作つくり、国号を中国にならってと称した


元寇

フビライは、東アジアへの支配を拡大し、独立を保っていた日本も支配しようとくわだてた。
フビライは、まず日本にたびたび使いを送って、服属するように求めた。
しかし、朝廷と鎌倉幕府は一致して、これをはねつけた。
幕府は執権の北条時宗を中心に、元の襲来に備えた。

元軍は、1274(文永11)年と、7年後の1281(弘安4)年の2回にわたって、大船団を仕立てて日本をおそった。
日本側は、略奪と暴行の被害を受け、新奇な兵器にも悩まされた。
しかし、鎌倉武士は、これを国難として受け止め、よく戦った。
また、2回とも、元軍はのちに「神風」とよばれた暴風雨におそわれ、撤退した。
こうして日本は独立を保つことができた。
この2度にわたる元軍の襲来を倭寇という。

鎌倉幕府のおとろえ

元との戦いで、幕府を支える御家人は、多くの犠牲を払った。
しかし、外敵との戦いだったので、新しい土地を獲得することはなく、
幕府は御家人にじゅうぶんな恩賞となる土地をあたえることができなかった。
そのため、幕府は御家人たちの信頼を失うことになった。

また、御家人たちは、
兄弟による分割相続のくり返しで、
領地がしだいにせまくなり、生活の基盤が弱まった。

そのうえ、商工業の発達とともに、
武士も貨幣(銅銭)を使うことが多くなり、
領地を質に入れたり、売ったりするものもあらわれた。
幕府は、御家人を救うために、徳政令を出して、領地をただで取りもどさせようとした。
しかし、そうなると、御家人に金を貸す者がいなくなって、かえって御家人を苦しめる結果になった。

こうして、鎌倉幕府の支配は、かげりをみせはじめた。


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やってみよう
日本が武家政治の時代になっていたこと、元を撃退したこととの関係を考えてみよう

蒙古襲来 歴史の名場面

元軍の2度にわたる襲来は、
それぞれの元号をとって、文永の役と弘安の役とよばれている。

文永の役では、約3万の兵900隻の船に乗っておそってきた。
元軍は、対馬・壱岐を占領して
、九州北部の博多湾に上陸し、これをむかえ討つ幕府軍を苦しめた。
その戦法は、太鼓やどらを打ち鳴らし、毒を塗った矢と火器を使って攻めるというものだった。

しかし、日本側の抵抗も強く、
突然の暴風雨がおそったこともあって、
元軍は大きな被害を出して退却することになった。

弘安の役では、14万もの兵が4400隻の船に乗って、九州北部にせまった。

しかし、博多湾岸に石塁を築くなどの防備があったうえ、
じゅうぶんな準備をした日本の御家人が勇敢に戦って、元軍の上陸をはばんだ。
日本側は、夜の闇にまぎれて敵の船に乗りつけ、さんざん斬り回ったあげく、船に火をつけてひきあげた。
そこにふたたび暴風雨がおそいかかり、元軍は大損害をこうむって逃げ帰った。

御家人の勇戦や暴風雨に加えて、
元軍が海を渡っての戦いになれていなかったことや、
モンゴル人以外の兵が多く交じっていて統率に欠けたことも、日本の勝利の一因になった。