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第三節 律令国家の成立
○8 聖徳太子の新政

豪族の争いと隋の中国統一

6世紀になると、大和朝廷をさえる有力な豪族が、たがいに争うようになった。

とくに仏教が伝わると、
これを他国にならって受け入れるべきだとする蘇我氏と、
昔からの日本の神々の怒りをかうとして反対する物部氏が対立した。

蘇我氏は、帰化人を味方につけていた。
両者はついに武力をもって戦い、蘇我氏が物部氏をたおした。

6世紀の末、大陸では重大な変化がおこった。
589年、が中国全土を約300年ぶりに統一したのだ。
強大な軍事力をもつ隋の出現は、東アジアの国々にとって大きな脅威だった。

朝鮮半島の百済、高句麗、新羅は、隋に朝貢した。
日本も、これにいかに対処するか、態度をせまられることになった。


聖徳太子の登場

このような岐路に立っていた日本にあらわれたのが、聖徳太子(厩戸皇子)という若い指導者だった。

聖徳太子は皇族の一人として生まれ、
一度に10人のうったえを聞き分けることができた
という伝説が残されているほど聡明な人物だった。
初めての女帝として推古天皇が即位すると、593年、聖徳太子は天皇を助ける摂政となった。

600年、聖徳太子は、隋に使者(遣隋使)を送った。
日本が中国に王朝と交渉をもつのは120年ぶりのことだった。
隋の強大さを知った大使は、
日本が独立国家として発展するために、
大陸からすぐれた文化や制度を取り入れる必要があると考えた。

冠位十二階と十七条の憲法

聖徳太子は、隋との対等な外交を進める前に、まず、国内改革に着手した。
曽我氏の血すじを引く太子は、
蘇我馬子と協力しながら政治を進めたが、
太子の政治の本当のねらいは、豪族の力をおさえ、
儒教や仏教の教えをとりいれつつ、天皇を中心とした国家のしくみを整えることだった。

603年、太子は、有力な豪族が役職をしめるこれまでのしくみを改め、
生まれや家柄にかかわりなく、国家のためにすぐれた仕事をした人物を役人に採用する冠位十二階の制度を取り入れた。
それは、役人の位を12の段階に分け、冠の色で区別できるようにしたものだった。

ついで、604年、太子は十七条の憲法を定めた。
その内容は、
豪族が争いをやめ、
人々が和の精神をもち、
天皇を中心に協力していくことなどを求めたもので、
公のために奉仕する役人の心がまえと国家の理想が示された。

和を重視する考え方は、その後の日本社会の伝統となった。


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考えてみよう

聖徳太子から見て、推古天皇と蘇我馬子は、それぞれどのような続柄になるだろうか。

十七条の憲法の内容で、現代の日本にも通じると考えられる条文をあげてみよう。


冠位十二階(603年)
徳仁礼信義智(とくじんしんれいぎち)を大小に分けて、大は濃い色、小は薄い色で区別した。
役人の位階は一代限りで、世襲されなかった。

十七条の憲法(604年)
十七条の憲法は
<一に曰く、和をもって貴しとなし、さかうることなきを宗とせよ>で始まる。
以下はその要旨


(1) 和を尊び、人につからいそむいくことがないようにせよ。
(2) 仏教をおおいに尊重せよ。
(3) 天皇のお言葉には、必ずつつしんで従いなさい。
(4) 役人は人の守るべき道をすべての根本とせよ。
(5) 私利私欲を捨て、公平な裁判をせよ。
(6) 悪をこらしめ、善をせよ。
(7) 人は各自の任務を果たしなさい。
(8) 役人は朝早く仕事に出て、遅く帰りなさい。
(9) すべてのことにウソいつわりのない真心を根本とせよ。
(10) 考え方のちがいで、人を怒ってはいけない。
(11) 功績があれば賞を、罪を犯したら罰を、正しくあたえよ。
(12) 地方官は人民から税をむさぼり取ってはいけない。
(13) 役人は各自の職務の内容をよく心得なさい。
(14) 役人は他人をうらやみねたんではならない。
(15) 私心をすてて、公の立場に立つのが、君主に仕えるもののつとめだ。
(16) 人民を使って物事をさせるのは、いそがしくないときを選べ
(17) 大切なことはみんなとよく議論して決めなさい。
(『日本書紀』より要約)