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第三節 律令国家の成立
○10 大化の改新

7世紀の東アジア

隋は高句麗に大軍を出すなどの無理がたたり、30年ほどでほろんだ。

そのあと中国を統一したのは唐だった。
唐は隋の制度を引きつぎ、
皇帝を中心に、法律、戸籍、科挙などの、
よく整備された国家の制度をつくりあげた。

日本からは、遣隋使に引き続いて遣唐使が派遣され、
同行した留学生や僧が、現地に滞在して唐のすぐれた制度を学んだ。

7世紀の中ごろになると、国力をつけた唐は、対立する高句麗を攻撃した。
朝鮮半島の3国に緊張が走り、日本も危機に備えて国家の体制を強化しなければならなくなった。


蘇我氏の横暴

ところが、聖徳太子が亡くなったのち、
蘇我氏の一族が横暴をきわめるようになった。
蘇我馬子の子の蝦夷は天皇のようにふるまい、自分の息子をすべて王子とよばせた。

蝦夷の子の入鹿も、
聖徳太子の長男の山背大兄王をはじめ、
大子の一族を一人残らず死に追いやった。

やがて、聖徳太子の理想を受けつぎ、
蘇我氏をおさえ、天皇を中心とする国づくりを求める機運が生まれた。

このころ、太子が派遣した留学生があいついで帰国し、
唐の進んだ政治制度を伝えたことも、改革の機運を高めた。


大化の改新

蘇我氏をたおす計画を心に秘めていたのは、中大兄皇子と中臣鎌足だった。
645年、中大兄皇子は宮廷で入鹿を討ち、知らせを受けた蝦夷は自害した。
こうして、蘇我氏は滅亡した。

この年、朝廷では日本で最初の年号を立てて、大化元年とした。
東アジアで、
中国の王朝が定めたものとは異なる、
独自の年号を定めて使用しつづけた国は日本だけだった。

翌年には、
これまで皇族や豪族が私有していた土地と人民を、
国家が直接統治する、公地・公民の方針を打ち出した。

大化元年に始まるこの改革を、大化の改新とよぶ。
大化の改新は、聖徳太子以来の国の理想を実現するために、
天皇と臣下の区別を明らかにして、日本独自の国家の秩序を打ち立てようとしたものだった。



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やってみよう
大化の改新において、中国の制度に学んで、
取り入れたところと、日本独自のところを箇条書きにまとめてみよう。

科挙
中国で行われていた役人を登用するための試験。
中国では6世紀に始まり、その後、1300年以上も行われていた。
たいへんきびしい試験で、家柄に関係なく有能な人材がえらばれた。
ただし、この制度は日本にとり入れられなかった。

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歴史の名場面
蘇我氏の滅亡

中臣鎌足は、けまりの会を通じて、
中大兄皇子に接近し、蘇我氏打倒の思いを打ちあけ合うようになった。
それから1年半後、2人は、朝鮮の使者をむかえる日に、宮廷で計画を決行することになった。
しかし、入鹿に斬りつけることを命じてあった若者は、その場にのぞんで恐怖のあまり、体が動かない。

天皇の御前に出た入鹿があやしみだしたので、
中大兄皇子はチャンスを失ってはならないと感じ、すばやく飛び出して剣で入鹿を斬った。

おどろく天皇に、皇子はひれふして、ことのしだいを述べた。
蘇我氏を助ける者はちりぢりになり、
蘇我蝦夷は屋敷に火をつけて自害し、曽我氏は滅亡した。

645年6月の雨の日のことだった。