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第三節 律令国家の成立
○11日本という国号の成立

白村江の戦いと国防の備え

7世紀の半ば、朝鮮半島では、新羅が唐と結んで百済を攻めた。

日本と300年の親交がある百済が敗れ、
半島南部が唐の支配下に入ることは日本にとっても脅威だった。
そこで、中大兄皇子を中心とする朝廷は、百済を助けるために、多くの兵と物資を船で送った。

唐、新羅連合軍との決戦は、
663年、半島南西部の白村江で行われ、
2日間の壮烈な戦いののち、日本側の大敗北に終わった(白村江の戦い)。
日本の軍船400隻は燃え上がり、空と海を炎で真っ赤に染めたという。
こうして百済は滅亡した。
新羅は、唐と連合して高句麗も滅ぼし、朝鮮半島を統一した。

いっぽう、
百済からは、王族や貴族をはじめ、
一般の人々までが日本に亡命してきた。
そのうち一部は近江(滋賀県)、一部は東国に定住した。
朝廷は彼らをあつくもてなし、政治の制度の運営についての知識を得た。

白村江の敗北は、日本にとって大きな衝撃だった
唐と新羅の襲来をおそれた日本は、
九州に防人を置き、水城を築いて、国をあげて防衛に努めた。
また、中大兄皇子は都を飛鳥から近江に移し、即位して天智天皇となった。
(水城=九州の大宰府を防衛するために築かれた土塁と濠)

天皇は国内の改革をさらに進め、全国的な戸籍を作った。


壬申の乱

天智天皇が亡くなったのちの672年、天皇の子の大友皇子と、
天皇の弟の大海人皇子(おおあまのおうじ)のあいだで、皇位継承をめぐって内乱がおこった。
これを壬申の乱という。

大海人皇子は、
地方の豪族を味方につけ、機敏な行動で大勝利を収めた。
この争いの中で豪族たちは分裂し、政治の発言力を弱めた。
こうして、天皇を中心に国全体の発展をはかる体制がつくられていった。


天武天皇と持統天皇の政治

内乱に勝利した大海人皇子は、天武天皇として即位し、
皇室の地位を高め、公地・公民をめざす改新の動きを力強く進めた。
天武天皇は、中国の律令制度にならった国家の法律の制定と、国の歴史書の編集に着手した。
また、国政を運営する役人の位(くらい)や昇進の制度を定め、豪族たちをこの制度の中に組み入れていった。

天武天皇のあと、皇后の持統天皇が即位して、改革を受けついだ。
持統天皇は、都として、奈良盆地南部の地に、藤原京を建設した。
これは、初めて中国にならってつくられた大規模な都の建設だった。
ここに、聖徳太子の新政以来の国づくりが完成に近づいた。

日本という国号が用いられるようになったのも、このころとされている。


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やってみよう
白村江の戦いに敗北したことが、日本にどのような影響をあたえたのか、まとめてみよう