第2節 江戸幕府の政治
人物コラム
信長・秀吉・家康 天下統一の人間像

戦国時代の乱世を統一して、
新しい時代を切り開いた3人の武将、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康。
彼らの性格を比較する、おもしろい川柳がある。

3人が同じ題材で句をよんだというつくりをとって、
それぞれの生き方や行動のしかたがうまく表現されている。

(信長)
「鳴かぬなら 殺してしまえ ほととぎす」

(秀吉)
「鳴かぬなら 鳴かせてみよう ほととぎす」

(家康)
「鳴かぬなら 鳴くまでまとう ほととぎす」

また、信長、秀吉、家康の天下統一とのかかわりをたとえた、次のような歌もある。

「織田がつき 橋場がこねし 天下餅
すわりしままに食うは徳川」

信長が準備し、秀吉(羽柴は豊臣を名乗る前の秀吉の姓)が
完成した天下統一という事業を、家康がそのまま受けついだという意味である。

信長は、これまであったものを徹底的に破壊し、新しいものを取り入れた武将だった。
比叡山を焼き討ちし、足利将軍家を廃止する一方、大量の鉄砲を導入していくさのあり方を一変させた。
また大胆にキリスト教の布教を認め、商工業者の活動を自由にした。
信長がそれまでの制度や慣習を強力に一掃したことで、新しい社会の基盤が整えられたのである。

秀吉は、信長を忠実に助けて、その死後、彼の事業を受けついだ。
低い身分から努力して身をおこした人物であっただけに、
人々マ心をつかむ力にたけ、その人間的魅力とたくみな政治力で天下統一という事業を完成した。

これに対し、家康は「待つ」ことに努めた武将だった。
早くから信長と同盟して「律義者」といわれるほどよく助けた。
秀吉のはなばなしい活躍に対しても、あせらず忍耐して着実にゆるぎない実力をたくわえた。
74歳と長命にめぐまれたことも、家康にとっては幸運だった。

家康は、晩年に次のように語ったとされる。
「人の一生は、重い荷物を背負って、遠くまで続く道を行くようなものだ」

信長や秀吉のようなはなやかさはないが、
家康は着実に努力を重ね、ついに徳川家の長く続く政治体制をつくりあげたのである。

家康のたくみな政治があったからこそ、
江戸時代に、約260年にもわたる平和で安定した社会が実現したといえるだろう。