第三節 律令国家の成立
○9 遣隋使と天皇号の始まり

遣隋使の派遣

国内の改革に成功した聖徳太子は、
607年、ふたたび遣隋使を派遣した。
代表に選ばれたのは、小野妹子だった。
彼は、地方豪族の出身で、
冠位十二階の制度によって、
才能を認められ取り立てられた人物だった。

このときの隋の皇帝にあてた手紙には、
「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや」と書かれていた。
太子は手紙の文面で対等の立場を強調することで、隋に決して服属しないという決意を表明したのだった。

隋の皇帝・煬帝は、この手紙を無礼であるとして激怒した。
朝貢国である倭国が、皇帝の別名である天子という称号を、
みずからの君主の称号として用いるのは、許しがたいことだった。
中国人の概念では、皇帝は世界に一人しか存在しないはずのものだった。

しかし、煬帝は、高句麗との戦争をひかえていたので、
日本と高句麗が手を結ぶことをおそれて自重し、帰国する小野妹子に返礼の使者をつけた。

(聖徳太子は高句麗の僧を仏教の師としていたので、
隋と高句麗の関係をつかんだうえで外交のタイミングを選んだと考えられる)


天皇号の始まり

翌年の608年、
3回目の遣隋使を派遣することになった。
そのとき、手紙の文面をどうするかが問題だった。
中国の皇帝の怒りをかった以上、中国の君主と同じ称号を唱えることはできない。
しかし、ふたたび倭王の称号にもどり、中国に自国の支配権を認めてもらう道を選びたくはなかった。

日本が大陸の文明に吸収されて、固有の文化を失うことはさけたかった。
そこで、このときの手紙には、「東の天皇、敬しみて、西の皇帝に曰す」と書かれた。

皇帝の文字をさけることで隋の立場に配慮しつつも、
それに劣らない称号を使うことで、両国が対等であることを表明したのである。

これが天皇という称号が使われた始まりとされる。
(少しのちの天武天皇(在位673〜686)の時代に天皇号が使われはじめたとする説もある)

日本の自立の姿勢を示す天皇の称号は、その後も使われ続け、とぎれることなく今日にいたっている。

聖徳太子と仏教と古来の神々

聖徳太子は、607年に法隆寺を建てるなど、蘇我氏とともに仏教をあつく信仰した。
しかし一方で、太子は、日本古来の神々を大切にすることも忘れなかった。
同じ年には、推古天皇が、伝統ある神々をまつり続けることを誓った。

このような聖徳太子の態度は、
外国のすぐれた文化をとりいれつつ、
自国の文化をすてない日本の伝統につながっていったと考えられる。
聖徳太子は、内政でも外交でも、日本の古代国家の設計図をえがいた指導者だった。
太子が活躍した7世紀には、政治や文化の中心が飛鳥地方にあったので、この時代を飛鳥時代とよぶ。



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やってみよう
聖徳太子がなしとげたことを年表にまとめてみよう。

考えてみよう
607年、隋の煬帝が日本からの手紙を見て激怒した理由はなんだろうか。
608年の手紙と比較して考えてみよう。

歴史の言葉
中国の「皇帝」と日本の「天皇」

「皇帝」という君主の称号は、秦の始皇帝以来、中国の歴代の王朝で使われた。
周辺諸国は、皇帝から「王」の称号をあたえられることで、皇帝に服属した。
日本も、かつて、「王」の称号を受けていたが、それをみずから「天皇」に変えた。

皇帝は、力のある者が戦争で旧王朝をたおし、前の皇帝を亡きものとする革命によってその地位についた。
中国ではしばしば革命がおこり、王朝が交代した。
それに対し、天皇の地位は、皇室の血すじにもとづいて、代々受け継がれた。

皇帝は権力を一手ににぎっていたが、日本の天皇は、歴史上、権力からはなれている期間のほうが長かった。
政治の実力者は時代によってかわったが、天皇にとってかわった者はいなかった。
日本では、革命や王朝交代はおこらなかった。