第一節 日本のあけぼの
○4 耕作の広まりと弥生文化

水田耕作の始まり

すでに日本列島には、縄文時代に大陸からイネがもたらされ、
畑や自然の水たまりを用いて小規模な栽培が行われていたが、
紀元前4世紀ごろまでには、灌漑用の水路をともなう水田を用いた稲作の技術が九州北部に伝わった。
稲作は西日本一帯にもゆっくりと広がり、海づたいに東北地方にまで達した。

稲作が始まると、これまで小高い丘に住んでいた人々は、
稲作に適した平地に移り、ムラ(村)をつくって暮らすようになった。
人々は共同で作業し、大規模な水田がつくられるようになった。
稲穂のつみ取りには石包丁が用いられ、収穫して乾燥させた穂を納める高床式倉庫が建てられた。
村では豊かな実りを祈り、収穫に感謝する祭りが行われた。

弥生文化

稲作とともに、青銅器や鉄器のなどの
金属器も大陸から伝わり、やがて国内でも生産が始まった。
銅剣や銅矛はもともと武器としてつくられたが、
やがて、銅鏡や銅鐸とともに祭りのための宝物として扱われるようになった。
いっぽう、鉄器は農耕用具や武器として実用的に用いられた。
またこのころ、縄文土器にかわって、弥生土器という新しい土器がつくられるようになった。
これまでよりうすく、つぼやかめ、食器など
さまざまな用途に使われ、稲作の広がりとともに全国に伝えられていった。
この弥生土器が用いられていた、紀元前4世紀ごろから紀元後3世紀ごろまでの約700年間を、弥生時代とよび、この時代の農耕文化を弥生文化とよぶ。

ムラからクニへ

稲作によって食料が豊かになると、ムラの人口は増えた。
ムラどうしの交流が盛んになる一方で、
水田や用水、収穫物をめぐる争いもおこり、
ムラを守るために周囲に濠や柵がつくられた。
ムラの中には、共同作業を指揮し、
祭りを取りしきる指導者があらわれ、
争いのときにも大きな役割を果たした。

やがて、いくつものムラがまとまって、小さなクニ(国)が生まれた。
これら小国の指導者は王とよばれた。
この時期の集落の跡で最も大きいものの一つに、佐賀県の吉野ケ里遺跡がある。

集落の周りは、全長2.5kmもある二重の濠でかこまれ、
巨大な建築物や多くの住居、倉庫、神殿が建てられていた。
人々をほうむった棺が2000個以上も発見されており、当時の共同体のようすがうかがえる。

やってみよう
近くに弥生時代の遺跡があれば見学してみよう。

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弥生土器
東京都文京区弥生町で初めて見つかったのでこの名がある。

稲作の始まりはさらに古く、紀元前10世紀ごろまでさかのぼるとの見方もある。

ムラ
ムラはムレ(群)と関連のある言葉で、人々が固まって暮らしていることに由来する
クニ(国) 
人々が暮らしていて、一定の統治がおよぶ限られた地域のこと