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歴史の名場面 大仏開眼供養


● 開眼供養の日 ●

752(天平勝宝4)年4月9日、
ようやく完成した東大寺の大仏の前に、1万数千人の人々が参列していた。
これから開眼供養が盛大にとり行われるのである。
開眼供養とは、仏像に目をかきこんで、魂をむかえ入れる儀式である。
この年は、『日本書紀』の伝える日本への仏教伝来の年から、ちょうど200年目にあたっていた。

聖武天皇が詔(天皇の命令)を発して、
「国民みんなで大仏をつくろう」とよびかけてから、すでに9年の歳月が流れていた。
人々は一致団結して、この大仏建立という国家的大事業を成しとげたのだった。


● 大仏制作の苦労 ●

しかし、大仏が完成するまでには、さまざまな困難が待ち受けていた。

大仏の制作は、まず粘土での原型づくりから始まった。
それを焼き固めて型をつくり、続いて鋳造が行われた。
なにしろ高さ16mもある巨大な像である。
その作業には、周囲に土手を築いてそこからブロンズ(青銅)を長しこむ方法がとられた。
8回に分けて行われた鋳造には、準備期間も含めて3年がついやされた。
使用されたブロンズは、台座を除いても250トンにおよんだとされる。

大仏づくりを率いた仏師の
国中連公麻呂(くになかのむらじきみまろ)は、
このむずかしい工程をたくみに統括し、成功に導いた。


残る問題は、大仏の表面をおおう金の不足だった。
ところが、ちょうどそのころ、
今の宮城県(陸奥国の一部)から黄金が出たという知らせがとどき、人々は喜びにわいた。
こうして、749(天平勝宝元)年、大仏のおもだった部分は無事完成をみたのだった。


● 国際的な祝祭だった開眼供養 ●

開眼供養では、退位して天皇の位をゆずっていた聖武上皇のほか、
光明皇太后と、娘の孝謙天皇が最前列に座った。

心労のあまり病を重くしていた聖武上皇にかわり、インドの高僧が開眼をとり行った。
その筆からは色とりどりのつながのび、その端を天皇ら列席者たちがにぎった。
大仏の目を開く喜びをみなが分かち合った。

読経ののち、音楽が演奏され、舞がまわれた。
日本古来の舞だけでなく、唐、朝鮮、東アジアの舞いも加わった。
数百人の踊り手たちが、次々と各国の舞を披露していくようすに、列席者たちは酔いしれた。
仏教が日本に伝来して以来、これほど盛大な祝祭はなかったと、当時の歴史書には記されている。

大仏開眼供養は、内外に律令国家の発展を示す国際的な祝祭だったのである。