第一節 戦国時代から天下統一へ
○28 ヨーロッパ人の来航

鉄砲の伝来とキリスト教の布教

1543(天文12)年、
シャム(現在のタイ)からポルトガル人を乗せた中国船が、
暴風雨にあい、種子島(鹿児島県)に漂着した。
彼らが、日本に来た最初のヨーロッパ人となった。

このとき鉄砲が日本に伝えられた。
戦乱の時代だったので、鉄砲は新兵器として注目され、たちまち全国に広がった。
まもなく、堺(大阪府)など各地で刀鍛冶が
鉄砲の生産を始め、やがて日本は世界一の鉄砲生産国となった。
鉄砲の使用は、それまでの戦闘の方法を大きく変えて、全国統一を早めるという効果をもたらした。

鉄砲伝来の6年後の1549(天文18)年には、
イエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエルが鹿児島に到着し、キリスト教の布教を開始した。
その後もポルトガルの商人とともにやって来た宣教師たちは、
熱心にキリスト教を布教し、当時の日本人に新鮮な印象をあたえた。
宣教師たちは病院や孤児院をつくって人々の心をとらえた。


南蛮貿易とキリシタン大名

16世紀末には、ポルトガル人に続いて、
フィリピンを拠点とするスペイン人も日本にやって来た。
日本人は、ポルトガル人とスペイン人を南蛮人とよんだ。

彼らは、日本に火薬、時計、ガラス製品などヨーロッパの品々や、中国の生糸・絹織物をもたらした。
他方、日本は当時、世界有数の銀の産出国だったので、
南蛮人たちは日本で銀を手に入れて、アジア各地との交易に用いた。
これを南蛮貿易という。

南蛮貿易の利益に着目した西日本の大名たちの中には、
キリスト教を保護し、みずから入信するものもあらわれた。
彼らをキリシタン大名という。
最初のキリシタン大名となった九州の大村氏は、長崎を開港してイエズス会に寄進した。
長崎は、貿易と布教の拠点となり、その後もヨーロッパとの窓口の役割を果たすようになった。。

キリシタン大名の保護を受けて、長崎、山口、教徒などには
教会(南蛮寺)もつくられるようになり、キリスト教は西日本を中心に広がった。

1582(天正10)年には、3人のキリシタン大名が、
4人の少年をローマ教皇のもとに使節として送った(天正遣欧使節)。
少年たちは3年がかりでローマに着き、大歓迎を受け、ヨーロッパでは日本に対する関心が高まった。
この時期から、日本人の東南アジアへの進出も本格化した。


天正遣欧使節
日本にもどってからはキリスト教弾圧のため、活動の場はなかった。
しかし、日本とヨーロッパを結ぶ役割を果たしたことは重要である




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やってみよう
上の南蛮貿易の絵で、それまでの日本になかったものを見つけ、なるべくたくさんあげてみよう