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第一節 戦国時代から天下統一へ
○30 秀吉の政治

太閤検地と刀狩

全国統一が近づいた1582(天正10)年から、豊臣秀吉は、
各地の米の収穫高を土地ごとに調べさせ、土地の等級と石高を示す検地帳を作成した。(注1)
これを、太閤検地という。
検地によって、それまで公家や寺社など
荘園領主がもっていた田畑へのさまざまな権利は否定され、農民は土地の所有権を認められた。
そして、農民はその土地を治める大名などに、年貢を納めることになった。


秀吉はまた、1588(天正16)年、刀狩令を発して、
農民や寺院から刀や弓、槍、鉄砲などの武器を没収した。
この結果、社会の安全を保つのは大名をはじめ武士の役割とされ、
農民は耕作に専念することになった(兵農分離)。
こうして身分の区別が確定し、安定した社会秩序がつくられていった。


注1、土地の等級は、上田、中田、下田、下々田などであらわされた。
石高は、耕地一反(10アール)あたりの米のとれ高に耕地面積をかけて計算した。
畑や屋敷のある土地も、米のとれ高に換算された。


キリスト教の禁止

南蛮貿易を重視し、キリスト教の布教を認めていた秀吉は、
1587(天正15)年、突如としてバテレン追放令を発し、キリスト教を禁止する政策に転換した。(注2)

秀吉は、高山右近などの
キリシタン大名が信仰によって結束し、
統一のさまたげになるのをおそれたといわれている。
また、そのころ、フィリピンを拠点にしていた宣教師たちのあいだには、
キリスト教を広めるため、南アメリカで行ったりと同じように、中国や日本を武力で征服する計画があった。
秀吉のキリスト教への疑いにはそれなりの根拠があったのである。

ただし、秀吉は、貿易による利益を重視し、
南蛮商人の来航は引き続き認めたので、キリスト教の禁止は徹底しなかった。


注2、バテレンとはキリスト教の神父のこと。
ポルトガル語のバードレー(神父)からきた言葉。



朝鮮への出兵

約100年ぶりに全国統一を果たし、秀吉の意気はさかんだった。

秀吉は、中国の明を征服し、天皇とともに大陸に移り住んで、
東アジアからインドまでも支配しようという巨大な夢をもつにいたった。

1592(文禄元)年、秀吉は15万あまりの大軍を朝鮮に送った。
加藤清正や小西行長などの武将に率いられた秀吉の軍勢は、
たちまち首都の漢城(現在のソウル)を落とし、朝鮮北部にまで進んだ。

しかし、朝鮮の李舜臣が率いる
水軍の活躍、民衆の抵抗、明の朝鮮への援軍などで、
不利な戦いとなり、明との和平交渉のために兵を引いた(文禄の役)。

しかし、明との交渉はととのわず、
1597(慶長2)年、秀吉はふたたび14万の大軍を派遣した。
ところが、
今度は朝鮮南部から先に進むことができず、
翌年、秀吉が死去し、兵を引きあげた(慶長の役)。
2度にわたって行われた出兵により、朝鮮の国土や人々の生活は著しく荒廃した。
この出兵に、莫大な費用と兵力をついやした豊臣家の支配はゆらいだ。




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刀狩令(1588年)(一部要約)
一、各地の百姓が、刀や短刀、弓、鉄砲、その他の武器をもつことをきびしく禁止する。
そのわけは、百姓が不必要な武器をもっていると、
年貢や税を出ししぶり、おのずと一揆をくわだてて、大名から土地を与えられている家臣に対して、
不法のふるまいをする者が出ると、もちろん処刑される。
そうすると、その者の田や畑はたがやされずに、領地がむだになってしまうからだ。
そこで、大名や家臣、代官は、以上の武器をすべて集め、さし出しなさい。

一、とり集めた刀や短刀などは、無駄にしてはならないので、
このたび建てさせている京都の方向寺の大仏のクギやかすがいに使え。
そうすれば、現世はもちろん、あの世まで百姓が助かることになる。

一、百姓は農具だけをもって、
ひたすら農業に打ちこんでいれば、
子供の末まで長く暮らしを保つことができる。
じつに国内が安らかとなり、人々が幸せになるもとである。


バテレン追放令(1587年)(一部要約)-実際には追放は実現しなかった。
一、日本は神国なので、キリシタンの国からよこしまな教え(キリスト教)を伝えることは許さない。
一、バテレンが地元の人々を近づけて信者にし、彼らをそそのかして神社や寺院を打ちこわしているのは、これまでに一度もなかった悪事である・・・・
一、バテレンを日本に住まわせることはできないので、二十日以内に準備して帰国せよ。・・・・・
一、ポルトガル・スペイン船が貿易にくるのは事情がちがうので、今後も自由に売り買いをしてよい。
一、仏教をさまたげない者は、商人はもちろん、だれでもキリシタン国と自由に行き来してよい。



秀吉とフェリペ2世
ちょうど秀吉が天下統一を成しとげたころ、
スペインでは、国王フェリペ2世がイスラム勢力を打ち負かし絶頂期にあった。
アジアに派遣されたスペイン人宣教師たちは、
中国の武力征服と日本の利用価値を書簡でフェリペ2世に説いた。
しかし期せずして秀吉と同じ1598年にこの世を去ったので、征服計画は実現しなかった。




やってみよう
秀吉の障害と事業を年表にまとめてみよう。