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第二節 古代国家の形成
○6 大和朝廷と古墳の始まり

大和朝廷による国内の統一

中国の歴史書で「倭国」とよばれていた日本は
4世紀のころ、中国の文字記録からまったく姿を消してしまう。
この期間、中国では国内が分裂して対外的な影響が弱まっていた。
ちょうどその期間、
朝鮮半島では、北部で高句麗が強国となり、
南部では百済や新羅が台頭して、統一国家の動きが強まった。

こうした周辺諸国の動きに合わせるかのように、
日本列島でも、小国を合わせて統一国家をつくる動きが生まれた。
その動きの中心は、大和(奈良県)を勢力の基盤にした大和朝廷とよばれる政権だった。

大和朝廷の始まりについては、同時代の文字による記録はない。
しかし、大和朝廷が強大な政権になった時期が、
4世紀前半のころであることは、次に述べる古墳の普及のようすから推測することができる。



巨大古墳と大和朝廷

3世紀ごろから、日本では、
まるで小山のように盛り上がった大きな墓がつくられるようになった。
これが古墳とよばれるもので、
さかんに古墳をつくる風習が続いた6世紀末までの約300年間を、
古墳時代とよび、この時代の文化を古墳文化という。

古墳では、今ではこんもりとした
緑におおわれた山のようにしか見えないが、
つくられた当時は、墓らしく山の表面には石が敷きつめられていた。
古墳の周りや頂上には、円筒形や人物・家屋・馬などをかたどった埴輪が並べられていた。

大規模な古墳の多くは、
四角い形の手前の部分と、
円い形の部分とからなる前方後円墳とよばれるものだった。
円い部分の中に石室があり、
死者をほうむった棺が安置され、
鏡・玉・剣や農具・馬具などの副葬品も入れられていた。

古墳にほうむられていたのは大和朝廷の指導者で、
のちに一定の地域に勢力をもつ豪族たちもほうむられるようになった。
大和や河内(大阪府)には、ひとはわ巨大な古墳が多数つくられている。

これは大和朝廷がこの地域の有力な豪族たちが連合してつくった統一政権だったことを示している。
古墳は近畿地方からしだいに、南は鹿児島から北は岩手県にわたる国内各地へと広まっていった。
これは大和朝廷の勢力の広がりを反映したものと考えられる。

豪族たちの連合の上に立つのは、
のちの天皇にあたる大王(おおきみ)で、その古墳はひときわ巨大だった。
豪族は同じ血縁を中心とした氏という集団をつくり、
大王から臣(おみ)や連(むらじ)といった姓(かばね)をあたえられ、氏ごとに決まった仕事を受けもった。
これを氏姓制度という。


やってみよう
近くに古墳があれば、休日などを利用して見学してみよう。

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踊る埴輪
人間の埴輪は5,6世紀につくられ、単純だが自由な表現が多い。
この踊りを舞う男女からは、明るい人々の声が聞こえてきそうである。
(埼玉県大里郡出土)

箸墓古墳
3世紀後半につくられた、巨大古墳としては最古の前方後円墳。
『日本書紀』に「日中は人がつくり、夜は神がつくった」と記されている(奈良県)

大仙古墳(仁徳天皇陵)
最も大きな古墳。
長さ486mの前方後円墳で、三十の濠がめぐらしている(大阪市)

古墳造営のために石を運ぶ実験
巨石を運ぶための修羅とよばれる木製のソリを使った。
大阪府藤井寺の仲津媛皇后陵(5世紀前半)で発掘された修羅はの全長は7〜8mもある。