明治串本新聞 9月17日水曜日
発行所 串本新聞社 発行者 串本一郎 第45号

串本沖でトルコ軍艦遭難
海難史上最大の惨事 587名絶望

串本大島村民総出 69名の命助ける

1890(明治23)年9月16日、
オスマン・トルコ帝国の使節団一行を乗せた軍艦が和歌山県串本・大島沖で遭難。
乗組員650余名中587名の犠牲を出す大惨事となった。

日本が明治維新の諸改革を行っていたころ、
オスマン・トルコ帝国でも、近代化改革や欧米列強への対等なあつかいを求めて努力をしていた。
皇帝アブドル・ハミド二世は視察のため、日本に特派使節を派遣した。
一向はトルコ軍艦エルトゥールル号で1890(明治23)年6月5日来日、9月15日に帰途についた。

しかし、一行は台風に遭遇し、和歌山県串本・大島の樫野埼沖(かしのざきおき)で遭難した。
650余名の乗組員のうち587名が死亡、生存者69名という大惨事となった。


わが村民の献身的な救助・介護活動

エルトゥールル号の遭難現場は惨憺たる状況だった。
第一発見者の灯台守はいう。

「9月16日の真夜中、服はぼろぼろで裸同然、全身傷だらけの男がやって来た。
海で遭難した外国人であることはすぐにわかった。
『万国信号書』を見せると、
彼がトルコ軍艦に乗っていたトルコ人であること、
また多くの乗組員が海に投げ出されたことがわかった。
救助に向かった村の男たちが岩場の海岸におりると、おびただしい船の破片と遺体があった。
男たちは裸になって、息がある人たちをだきおこし、冷えきった体を暖めた」

助けられた人々は村の寺や小学校に収容され、手厚い介護を受けた。
村では非常食用の鶏など、村にあるすべてのものを提供した。
こうして69名の命は救われたのである。

政府広報

このたびのエルトゥールル号遭難にさいし、犠牲となった方々のご冥福を心よりお祈りいたします。

ついては、ご遺族の方々への弔慰金・慰霊碑建立のための義援金ご協力いただきますようお願い申し上げます
内閣総理大臣 山形有朋

社説
日本・トルコ友好の絆に

今回の大惨事では、
地元串本の村民たちの献身的な救助・介護の姿勢が話題となった。

また明治天皇は
生存者の救助・介護、犠牲者の遺体・遺品の捜索、
船の引きあげなどの事後処置を手厚く行うよう指示された。

義援金の募金も行われ、樫野埼には慰霊碑が建てられた。
今回の大惨事は誠に残念であるが、
日本・トルコの両国が深い友情の絆で結ばれたことは、せめてもの救いである、
これを機に、両国が協力して、さらなる発展をとげていくことを願ってやまない。