第二節 武士の政治の動き
○23 室町幕府

室町幕府の成立

足利尊氏は、1338(暦応元)年に、
北朝の天皇から征夷大将軍に任じられ、幕府を開いた。
のちに尊氏の孫の足利義満が京都の室町に邸宅を建て、
そこで政治を行ったので、
この幕府を室町幕府とよび、足利氏が将軍だった時代を室町時代という。
室町幕府は北朝によって承認されたので、しばらく南朝と対立した。

室町幕府は、地方の守護に、
国内の荘園や公領の年貢の半分を取り立てる権限をあたえ、
守護の力を強めて、全国の武士をまとめようとした。

守護は、荘園や公領を自分の領地に組み入れ、地元の武士を家来にした。
さらに、国司の権限も吸収して、それぞれの国を支配する守護大名に成長した。

3代将軍義満のころには、南朝の勢いがおとろえ、
1392(明徳3)年、南北朝の合一が実現して、戦乱は収まった。
義満はさらに、地方の有力な守護をおさえ、幕府の支配を安定させた。
このころの室町幕府は朝廷の権限の多くを吸収し、全国的な統一政権としての性格を強めた。
しかし、将軍が天皇から任命されてその地位につくという原則に、変更はなかった。

室町幕府のしくみは、ほぼ鎌倉幕府にならった。
ただ、将軍の補佐役として、執権のかわりに管領(かんれい)を置いた。
管領には、足利一族の有力な守護大名がついた。
また、関東地方を治めるために鎌倉幕府が置かれたが、
大きな権限をもっていたので、しだいに京都の幕府から独立するようになった。




勘合貿易と倭寇

14世紀後半、中国では漢民族の反乱よって元が北方に追われ、明が建国された。
明は、日本に倭寇の取りしまりを求めてきた。
倭寇とは、このころ朝鮮半島や中国の沿岸に出没していた海賊集団のことである。
彼らには、日本人のほかに朝鮮人も多くふくまれていた。

義満は、さっそくこれに応じて倭寇を禁止し、明との貿易(日明貿易)を始めた。
この貿易は、倭寇と区別するために
合い札(あいふだ)の証明書(勘合)を使ったので、勘合貿易とよばれる。

日本は刀剣・銅・硫黄・まき絵(注1)などを輸出し、
銅銭・絹織物・書画などを明から輸入して、室町幕府の重要な財源とした(注2)。
幕府の力がおとろえると、守護大名の大内氏が貿易の実権をにぎった。

16世紀の中ごろ、勘合貿易が停止すると、
ふたたび倭寇がさかんになったが、その構成員は、ほとんどが中国人だった。
倭寇が朝鮮半島から中国沿岸を荒らし回ったため、明は国力を弱めた。


注1、まき絵=美しい装飾をほどこしたうるし塗りの工芸品

注2、この貿易は、明に服属する形をとったため、
義満の死後、それを嫌って中断した時期があった。

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考えてみよう
上の勘合の絵を見て、勘合貿易のしくみを想像してみよう