紫式部と女流文学 人物コラム

○ 父とともに越前へ ○

紫式部は『源氏物語』の作者として名高いが、彼女の正確な名前はわかっていない。
当時、宮仕えの女性は、父親の官職などにちなんだ通称でよばれることが多かった。
「紫式部」の名も父親が式部省の役人だったことからついた、のちのよび名である。

紫式部は、幼いころから聡明な女性だった。

学者として名高かった父が、
彼女の弟に漢文を教えていると、
そばで聞いていた式部のほうが先に覚えてしまった。

父は、「この子が男だったら」となげいたという。

当時の学問の中心は、
中国の書物から学ぶ漢学で、女性は学ばないのがふつうだった。

20代の式部は、国司として赴任する父に従って越前(福井県)におもむいた。
実はこのころ、彼女は藤原宣孝(ふじわらののぶたか)から求婚されていたのだが、
宣孝が遊び者で20歳近く年上だったこともあり、返事をのばして京をはなれたのだった。
越前では、父の秘書の役割を果たし、広い知識を収めたという。



○ 宮中での生活 ○

結局、1年あまりで式部は京にもどり宣孝と結ばれたが、
3年後には夫は亡くなり、その後、一条天皇の后の彰子(しょうし・藤原道長の娘)に仕えた。

平安時代の宮廷は、貴族の娘の中でも才女が集まる。
優雅で知的な社交の場だった。

紫式部や清少納言、和泉式部らは、
ライバルとしてそれぞれの才能を競い、
かな文字を用いて世界に誇るすぐれた文学を生み出した。
式部が宮仕えのあいだに書いた「紫式部日記」には、
宮廷の生活や仕えている女性たちの人物像がいきいきとえがかれている。


○ 源氏物語の執筆 ○

宮仕えを終えた式部は、1008年ごろから不朽の名作『源氏物語』の執筆に取りかかった。
『源氏物語』は全54巻にもおよぶ長編小説で、
天皇の皇子である光源氏という架空の人物と、彼を取り巻く多くの女性たちとの恋物語である。

紫の上、夕顔など400人にもおよぶ女性たちが、
個性的にえがき分けられ、それぞれの微妙な心理がたくみに描写されている。

『源氏物語』は、古典文学の最高峰としてその後も読みつがれてきた。
谷崎潤一郎や与謝野晶子ら多くの作家が
現代文に訳したこともあって、現在でも一般の人々にその物語は広く親しまれている。

京都御所のすぐ近くにある盧山寺(ろさんじ)には、「紫式部低宅址」と刻まれた石碑がある。
風流人でもあった彼女の祖父が居をかまえ、その後、4代にわたってここに住んだという。

秋のキキョウが
淡い紫色の花を咲かせている季節には、
今でも紫式部をしたって訪れる人々があとを絶たない。