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第四節 律令国家の展開
○17 平安の文化

仏教の新しい動き

奈良時代の仏教は、政治と深く結びついたものだった。
9世紀の初め、青年僧の最澄と空海はこのような仏教のあり方にあきたらず、遣唐使とともに唐に渡った。
帰国後、最澄は比叡山(滋賀県)に延暦寺を建てて天台宗を、空海は高野山(和歌山県)に金剛峯寺を建てて真言宗を広めた。
新しい仏教は政治からはなれ、僧は山中での学問や修行にはげみ、国家の平安を祈った。
のちには、人々のために祈とうを行うようになった。

国風文化と国文学の発達

9世紀に入ると唐がおとろえたため、894(寛平6)年、菅原道真の意見を取り入れ、朝廷は遣唐使を廃止した。
その後、日本の風土や生活に合った、優美で繊細な貴族文化が発達した。
これを国風文化とよぶ。
国風文化は、藤原氏による摂関政治の時代に最も栄えた。

貴族は、美しい自然を庭に取り入れた寝殿造の邸宅に住むようになり、その服装も日本風に変わった。
日本の自然や風俗を題材とした大和絵がえがかれ、寝殿造りの中の襖や屏風を飾った。

平安時代には、かな文字が普及し、特に平がなは貴族の女性のあいだで広まり、かなを用いた文学が発達した。
清少納言は、鋭い観察力で宮廷生活をつづった随筆『枕草子』を、紫式部は、世界最古の長編小説『源氏物語』を書いた。
『竹取物語』も平安時代の作品である。
また、物語に大和絵を添えた「源氏物語絵巻」などの絵巻物が、貴族を中心に広く好まれた。

和歌では、醍醐天皇の命を受けて、紀貫之らが『古今和歌集』を編集した。
貫之は、かなを使った最初の日記文学である『土佐日記』の作者でもあった。

浄土教と浄土芸術

10世紀の中ごろになると、天災や社会不安から、末法思想が流行した。
これを受けて、念仏を唱えて阿弥陀仏を信仰すれば、死後、極楽浄土に生まれ変わることができると説く浄土教がさかんになった。
浄土教は、空也や源信によって広められた。

有力な貴族は、浄土へのあこがれを胸に、阿弥陀堂を建て、阿弥陀仏の像を安置した。
藤原頼通の立てた宇治(京都府)の平等院鳳凰堂が代表的な例である。
その内部は極楽浄土のようすをあらわし、堂内には阿弥陀如来像が安置されている。
阿弥陀信仰は、都の貴族からしだいに地方へと広がった。
東北地方の中尊寺金色堂も、阿弥陀信仰が生み出した建造物である。

また同じころ、日本の神はインドのほとけが仮に姿を変えてあらわれたものとする説が定着し、ほとけと神をともにうやまう神仏習合がさかんになった。


末法=仏教がおとろえる末法の世になると、世の中が混乱するという考え方。
1052年が末法の始まりとされた。


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空海 人物コラム

空海(774〜835年)は、讃岐国(香川県)で生まれた。
上京して役人になるための勉強をしていたが、
きっかけがあって、四国をめぐって苦しい修行をし、神秘的な体験をする。
明るく輝く星があらわれ、それが口に入ってくるのを感じたというのだ。

その後、仏教の探求に打ち込み、山林での修行生活に入る。
やがて唐に渡り、真言宗という仏教の宗派の奥義を授けられて帰国した。

帰国後は寺院を作って真言宗を広める一方、
池の堤防を築く大工事を指導したり、学校を開設するなどの事業にたずさわった。
書道にもすぐれ、立派な作品を残している。
死後、仏教の法を広めたことをたたえて、弘法大師とよばれた。