第三節 律令国家の成立
○12 大宝律令と平城京

大宝律令

701(大宝元)年、大宝律令がつくられた。
律は刑罰を定めた法律、令は政治のしくみと手続きを定めた法律である。
律令にもとづいて政治を行う国家を、律令国家とよぶ。
大宝律令の制定により、日本の古代国家は、律令国家として完成した。

大宝律令では、
律は唐にほぼならったものだったが、
令は日本の実情にあわせてつくられた。

たとえば、
国政全般をつかさどる太政官のほかに、
神々の祭りをつかさどる神祇官が特別に置かれた。

唐に朝貢していた新羅が、独自の律令をもたなかったのに対し、
日本は、中国に学びながらも、独自の律令をつくる姿勢をつらぬいた。


平城京

律令国家の新しい都として、701(和銅3)年、奈良に平城京が作られた。
平城京に都が置かれていた約70年間を、奈良時代という。
平城京は唐の都の長安を手本に設計された。
ただし日本の国情に合わせてつくられた部分もあり、
長安には城壁が設けられていたが、平城京に城壁はなかった。
都には、
ごばんの目のように道が通され、
その北側の中央に、天皇の住まいや役所のある平城宮が置かれた。

市では各地の産物が売り買いされ、
唐の制度にならって和同開珎という独自の貨幣も発行された。

平城京の繁栄ぶりは、
「青丹よし奈良の都は咲く花の匂うがごとく今盛りなり」と歌われた。

奈良時代の日本の人口は約600万人で、平城京の人口は約10万人だった。

朝廷の役人は1万人で、
そのうちの約200人ほどの人々は、
天皇から高い地位をあたえられた中央の有力な豪族だった。

彼らは貴族とよばれ、政治にたずさわった。
国政はおもな役人の合議によって進められた。


公地・公民と班田収授法

律令国家のもとでは、公平な統治をめざして、
すべての土地と人民を国家が直接治める公地・公民の原則が打ち立てられた。
この原則にもとづき、人々に平等に土地を分ける、班田収授法というしくみが整えられた。

この法では、まず、6年ごとに改められる戸籍にもとづいて、
6歳以上の男女には生活の基礎となる口分田があたえられ、死後は国に返還された。
口分田の支給を受けた公民は、租・調・庸とよばれる税を納めた。

(ただし、公民(良民)と賤民との区別があり、
後者は人口の一割以下だったが、公民と差別されていた。
賤民の中心は奴婢と呼ばれる人々で、
所有者の財産としてあつかわれる一方、口分田を与えられていた。
のちの平安時代になると、公民と賤民の区別はしだいにゆるやかとなり、
10世紀の初めに賤民制度は廃止された。)

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律令国家におけるおもな税
租・・・収穫の約3%の稲を納める。地元でたくわえ、飢饉の救済用にあてた。
調・・・絹・布・糸・綿・海産物などその地方の特産物を納める。
庸・・・労働の義務。実際には労働するかわりに一定量の布地を朝廷に納める。
雑徭・・・60日を限度に地方で労働に従う義務。

兵役
  ・衛士(えし)・・・都の警備
  ・防人・・・・・・・・北九州の海辺を守る

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律令政治のしくみ 2官8省とよばれた。

天皇
  ├ 神祇官
  ├ 太政官
          ├  宮内省 宮中の一般的な業務
          ├  大蔵省  財政・計量の単位の管理
          ├  刑部省  刑罰・良民・賤民の決定
          ├  兵部省  武人の人事、軍事一般
          ├ 民部省  戸籍の管理、租税
          ├ 冶部省  貴族・僧の儀式、外交
          ├ 式部省  役人の人事、学校の管理
          ├ 中務省  天皇周辺の仕事

考えてみよう
2官8省の役所が、それぞれ今日のとの官庁にあたるかを考えてみよう。