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第四節 律令国家の展開
○15 平安京と摂関政治

平安京

8世紀の中ごろから、政治の実権をめぐる貴族や僧侶の争いがはげしくなった。

桓武天皇は、寺院などの古い仏教勢力が根をはる
奈良の地をはなれ、都を移すことで、政治を立て直そうと決意した。
新しい都は、794年(延暦13)年、交通の便のよい今の京都の地に作られた。
これが平安京で、この後、鎌倉に幕府が開かれるまでの約400年間を、平安時代とよぶ。

律令国家の立て直し

桓武天皇は、強い指導力を示して
貴族をおさえ、積極的に政治の改革を進めた。
班田収授のあり方を現実に合うように改め、
それを実施する国司や郡司をきびしく監視して、不正を取りしまった。

いっぽう、農民に兵役を負わせることをやめて負担を軽くし、
かわりに郡司の師弟から体の強い者を選んで、健児とよばれる兵士として採用し、国府の守りなどにあたらせた。

また、九州南部や東北地方などの
辺境の地域へも、しだいに律令のしくみを浸透させていった。
とくに東北地方に住む蝦夷とよばれた人々の反乱に対しては、
坂上田村麻呂を征夷大将軍として朝廷の軍勢を送り、これをしずめた。
こうして律令国家の領域は、さらに拡大した。


摂関政治

都が平安京に移り、律令国家が立て直され、
天皇の権威が確立してくると、天皇が直接、政治の場で意見を示す必要がなくなった。

いっぽう、藤原氏は、たくみに他の貴族を退け、
一族の娘を天皇の后とし、その皇子を天皇に立てて天皇の外戚となり、勢力をのばした。
藤原氏は、天皇が幼いころは摂政として、
また成長したのちは関白として、国政の実権をにぎるようになった。

これを摂関政治とよぶ。

摂関政治が最もさかんだったのは、藤原道長とその子の頼通のころで、
藤原氏は大規模な私有地である荘園を多くもち、朝廷の高い地位を一族でひとりじめにした。

公領と荘園

10世紀にはいると、人口が増え、新田が不足したために、班田収授法は行きづまった。
朝廷は方針を転換し、
国司に国家の土地である公領からの税の確保を求めるほかは干渉せず、地方政治をまかせた。

国司は、地元の有力農民を役人に取り立てて、徴税にあたらせた。
いっぽう、有力農民は、税を免れるため、みずから開墾した土地を荘園として、
藤原氏をはじめとする貴族や寺社に寄進し、みずからは荘園の管理者となって勢力をのばした。
これらの有力農民は、地方豪族とよばれる勢力に発展していった。


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考えてみよう
藤原氏が実権を失うとすれば、どのような場合だと考えられるだろうか。