第四節 律令国家の展開
○16 武士の登場と院政

武士の登場

平安時代は、
兵役の義務が廃止され、対外的な危機も少なかったので、
辺境の地域を除き、国家の正規の軍隊は置かれなかった。
そうしたこともあって、郡でも地方でも、治安の乱れがしだいにめだつようになった。

そのため、国司として地方におもむき、そのまま住み着いた一族や、
地方の豪族の中には、領地を守るためにみずから集団で武装するものがあらわれた。

これを武士という。

武士は、中央貴族の血すじをくみ、
指導者としての能力にすぐれた者を棟梁として主従関係を結び、武士団をつくった。
なかでも、天皇の子孫とされる源氏平氏が率いる武士団が有力だった。

武士=のちには、
貴族の近くにさぶらう(侍う)者という意味から、武士を「さむらい」とよぶようになった。

源氏は清和天皇の子孫、平氏は桓武天皇の子孫だったとされる。

院政

11世紀の半ばすぎ、200年ぶりに、
藤原氏を外戚にもたない後三条天皇が即位し、国政の実権をにぎった。
これによって、天皇の外戚として権力をふるっていた藤原氏の勢いはおさえられた。
天皇は、政治の改革に乗り出し、藤原氏の荘園をふくむ多くの荘園を整理する法令を出した。

その流れを受けついだ白河天皇は、
皇位をゆずったのちも、上皇として天皇の後ろ盾になり、強力な政治を行った。
上皇やその住む御所を院とよんだので、この政治を院政という。
摂関政治は、天皇の母方の一族が実権をにぎる政治だったが、
院政では、天皇の父方が、朝廷のしきたりにとらわれない、思いきった政治を行った。
このため、藤原氏の勢力はおとろえた。


武士の台頭

やがて武士は、
朝廷や院の武官として取り立てられ、
宮中や貴族の護衛の任につくようになった。
地方でも、国司の指揮下に入り、盗賊の取りしまりにあたった。
こうして、武士という身分がしだいに認められるようになった。

10世紀の中ごろ、
関東の豪族・平将門と、
瀬戸内地方の元国司・藤原純友が、武士団を率いて反乱をおこした。
これらの反乱をしずめるのにも、中央の貴族は、武士の力に頼らなければならなかった。
11世紀の後半には、東北地方で2回にわたって戦乱がおこり、
関東の武士団を率いてこれをしずめた源義家が、この地方の武士団の信望を集めるようになった。

前九年の役(1051〜62年)、後三年の役(1083〜87年)とよばれている

唐の滅亡と宋の建国

中国では、907年、唐が滅亡した。
約300年にわたって東アジアに君臨してきた王朝の消滅は、周辺諸国にとっても大事件だった。
こののち、約半世紀、中国では、
いくつもの王朝が興亡をくり返す混乱の時期が続いたが、979年、が中国全土を統一した。

いっぽう、朝鮮半島では、新羅が分裂しておとろえ、936年、高麗が半島を統一した。


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やってみよう
摂関政治と院政のちがいを表にまとめてみよう。