第1節 第一次世界大戦の時代
○ 66 日米関係とワシントン会議

日米関係の推移

日露戦争後、日本は東アジアにおけるおしもおされない大国となった。
フィリピンを領有したアメリカの極東政策の競争相手は日本となった。
他方、日米間では、日露戦争直後から、人種差別問題がおこっていた。
アメリカの西部諸州、特にカリフォルニアでは、勤勉で優秀な日本人移民が、白人労働者の仕事をうばうとして、日本人を排斥する運動がおこった。
アメリカ政府の指導者は日本人移民の立場に理解を示したが、西部諸州の行動はおさえられなかった。

第一次世界大戦後のパリ講和会議で、日本は国際連盟規約に人種差別撤廃を盛りこむ決議を提案した。
その目的は移民の差別を撤廃することだったので、オーストラリアなど、有色人種の移民を制限していた国は強硬に反対した。
米国は当初、日本に同情的だったが、西部諸州の反発をおそれて反対に加わり、決議は採択されなかった。
しかし、日本の提案は世界から多大の共感を得た。(注1)


ワシントン会議と国際協調

1921(大正10)年から翌年にかけて、海軍軍縮と中国問題を主要な課題とするワシントン会議がアメリカの提唱で開かれ、日本を含む9カ国が集まった。
会議の目的は、東アジアにおける各国の利害を調整し、この地域に安定した秩序をつくり出すことだった。

この会議で、米英日の海軍主力艦の保有率は、5:5:3とすることが決められた。
また、中国の領土保全、門戸開放が九カ国条約として成文化された。
同時に、20年間続いた日英同盟が、アメリカの強い意向によって解消された。

主力艦の相互削減は、第一次大戦後の軍縮の流れに沿うもので、本格的な軍備拡張競争では経済的に太刀打ちできない日本にとっては、むしろ有利な結論だったといえる。
しかし、海軍の中にはこれを不満とする意見も生まれるようになった。
政党政治が定着しつつあり、国際協調に努めた日本は、条約の取り決めをよく守った。(注2)


関東大震災

1923(大正12)年9月1日、関東地方で大地震がおこり、東京・横浜なとで大きな火災が発生して、死者・行方不明者は10万をこえた。(関東大震災)。

この混乱の中で、朝鮮人や社会主義者のあいだに不穏なくわだてがあるとのうわさが広まり、住民の自警団などが朝鮮人・中国人や社会主義者を殺害する事件がおきた。
この関東大震災の結果、日本の経済は大きな打撃を受けた。


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(注1)日本の提案は世界の有色人種から注目をあび、投票の結果、11対5で賛成が多数をしめた。
しかし、議長役のアメリカ代表ウィルソンが重要な課題は満場一致を要するとして否決を宣言した。

(注2)1922年、条約が成立すると、日本はただちに山東半島の権益を中国に返還し、軍事力よりも経済活動によって国力の発展をはかるように努めた。



やってみよう
日露戦争以後の日米関係を表にまとめてみよう。